身の程とは~やればできる病~
自分の限界値がわかれば、余計なことで気に病むことはない。
できること、できないことがはっきりしていれば、やるべきこと、自分の居場所はおのずと見えてくる。
出来ることを増やすより、出来ないことは何かを自覚し、選択肢を増やすのではなく削っていくほうが、道を狭める方が、結果自由度が高い生き方ができる。
なぜなら、人間は万能ではないからだ。
努力も才能も時間も全て、有限であるからだ。
持っている人もいれば、持っていない人もいる。むしろ、持っている人の方が圧倒的に少ないと言っていい。非常に冷酷で不条理である、これが世の理だろう。
そしてこれは、スポーツ選手などに例えるととても分かりやすい。
オリンピックの1競技に出場できるのはほんの数人。
しかし、その背後には、出場者と同じく鬼の努力を多大なる時間かけて重ね続けた幾千もの者達がいる。その敗者と勝者の間にあるのは何か?努力量の違いだろうか。それとも才能だろうか。
おそらくほとんど何も変わらないんだと思う。強いて言うなら運だろうか。
運も才能のうちとはこういうことだろう。
つまり、どんだけ頑張っても無理なものは無理なのだ。
そして、難しいのは、その判断。
どこまでやればいいのかわからない。
いつまで続ければいいのかわからない。
だから、悩む。
何が向いていて、何が向いていない、とか
自分のやりたいこととは何か、とか
そういう悩みの根元にある問題がこの自分の身の程を正しく知るかどうか、ということだろう。
まさに無知の知、である。
知らないということを、知らなすぎる。
出来ないことを、知らなすぎる。
やりたいことが何もないというのは、実はやりたいことが無限にある状態と同じなのだ。もっと言うなら、全能感に支配されている状態と言える。
やればなんでもできる、頑張れば何にでもなれる、というおきまりのアレだ。
もう一度言う、人間は万能ではない。
出来ないことの方が圧倒的に多い。
それなのに、知らず知らずのうちにやればできる病にかかっている。
そして俺もずっとかかっている。
このやればできる病を克服しない限り、一生苦しみ続けるだろう。
やればできるという言葉は、本当に恐ろしい言葉だ。
やればできるのであれば、敗者などそもそも存在しない。
やればできるのであれば、貧困など生まれない。
やればできるのであれば、みんな成功している。
各々の、おもいおもいの人間に慣れているはずだ。
やれば出来る
ではない。
出来ることをやる。
が正解。
そして、何ができるか。
つまり自分の好きなこと、得意なことを見つけるというのと同義なのだが。
これを俺はずっと探している。
自分をドライに、客観的に見えるようになりたい。
配られたカードで勝負するっきゃないのさ。それがどういう意味であれ。
自分以外の人間になりたいと願いながら、人生を生きるのは耐え難いって。